公の悲しみ、怒り。


この前『熊の敷石』の感想を書いていて、思うことがうまくまとまらずに尻切れトンボにしてしまったけど、id:Siegfriedさんからどんなふうに感じたのか、というコメントをいただいたので(ありがとうございます)少し。
生きていくということは数々の悲しみや怒りにぶつかっていくことで(数々の喜びも)、本来それらはとても個人的なもの。たとえば厳しい生活環境(戦争や貧困、病など)の中ではなおさら顕著だけれど、自らがそれに深くかかわってはじめて生まれる感情であると思う。世の中にはびこる想像もできないような悲しみは結局のところ私には本当に理解することはできないし、軽々しく理解したふりをするものじゃない、そのような感情に伴う痛みを感じることができないのだから。想像することしかできない。
この時代に生まれ育つということ。悲しみは皆で共有できるものなのかということ。日々過ごしていてそんな思いが形にならないままずっと心の中にのしかかっている。堀江さんの言葉でそれが少し形になりかけてきた、と感じたので。レベッカ・ブラウンを読んだ時にも同じようなことを感じた。
個人が草の根的に伝達していく―それしかないのでは。わたしたちはあまりにもわかったふりをしすぎるように思う。
なんだか思っていることの半分くらいしか表現できない、いつもながら自分の文章表現力のなさを切実に感じる。こういうのって才能なのか慣れなのか・・・。