無名  沢木耕太郎


親というものについて。生を受けた時から無条件に当たり前にあるその存在に、ある時期まで共に過ごした日常の積み重ねに、子は親のことを知っているつもりになっている。けれど親というものの本当の姿はその実何も理解していないものなのでは、親子とはそういうものなのでは、ということを深く考えさせられた。


脳出血により倒れた父に対して著者は「できるだけ早く父の話を聞いておかなくては」と焦るような思いを抱く。ジャーナリストとして他人の人生については肉親以上の根気強さで聞いてきたのに、こと自分の父親の人生については何も理解していない、と愕然とする。
父はとりたてて何かを成し遂げなかった、社会的にも無名な人。何者でもない自分を静かに受入れその状態に満足していた父の死際に、息子は父が余暇として作っていた俳句を集めて句集を編もうと考える。無名なりに何かの形で証を残すことによって父に対する供養をしたいと、それまで気にも留めていなかった父の句をひとつひとつ読み進めていく。それは紛れもない素人の句ではあるが、不自然な濁りのない、心象風景の澄んだ句たち。それらを編みながら著者は父と共有した記憶の中で父の本来の姿を探そうとする。


読んでいて何度も胸のつまるような思いがこみあげる。かなしいとかさみしいとかではない、不思議な感情。そのまま自分にもあてはまること。もうこの世にはいない、なくてはならない存在だった祖父母のことや、ちゃんと理解できず向き合えないまま死別した実父のこと。まだ元気で働いている父と母のことも。


「その肩の無頼のかげや懐手」
沢木さんが一番好きな父親の一句。